
Bones Brigadeとパウエル・ペラルタ: スケートビデオ文化の革命
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Bones Brigadeとパウエル・ペラルタ: スケートビデオ文化の革命
1980年代半ば、スケートボード界に革命を起こしたチームが誕生した。ボーンズ・ブリゲード──パウエル・ペラルタ社の若き精鋭たちによる伝説的チームである。彼らは卓越した才能と斬新なマーケティング戦略を武器に、ニッチな遊びだったスケートボードを世界的なカルチャー現象へと押し上げた。今回は、1984年のビデオ黎明期から1987年の金字塔『アニマル・チンを探せ』(The Search for Animal Chin)に至る軌跡を辿り、映像技法や物語性、そしてチームを支えた個性豊かなメンバー達の功績に迫る。
1986年、カリフォルニアのデルマー・スケートランチに集結したボーンズ・ブリゲードのメンバーたち。当時は10代の若者集団だったが、後にスケート界の「ロイヤルファミリー」と称される存在へと成長していく。パウエル・ペラルタを率いたのは元Z-BOYのレジェンド、ステイシー・ペラルタである。彼は「世界最高のスケートチームを創り、長期にわたり団結させる」夢を掲げ、1978年にエンジニアのジョージ・パウエルと組んで同社を設立。奇才クレイグ・ステシックIIIも招聘し、型破りな広告ヴィジュアルやチーム名「Bones Brigade(骨の旅団)」を生み出した。
ペラルタ曰く「スケート写真は雑誌に任せて、俺たちはアイデアとイメージを見せる」──当時月並みだった製品広告を捨て、カルチャーとユーモアを織り交ぜたアート志向のマーケティングで攻めたのだ。こうして編成されたボーンズ・ブリゲードは結成当初こそ無名の若手集団だったが、次第にコンテストを席巻しスケートボードの未来を切り拓いていくことになる。
VHSビデオの夜明け: 1984年『BBビデオショー』から物語への進化
1980年代前半、スケートボード雑誌は既存ブランドを贔屓しがちで、スター選手ですら冷遇される状況だった。実際、当時パウエル社の月間デッキ販売数はわずか500本程度、若きトニー・ホークのロイヤリティ小切手はたった85セントという低迷ぶりだったという。この閉塞感を打破すべく、ステイシー・ペラルタは「ビデオ」という新兵器に目を付ける。1984年、業界初の本格スケートチームビデオ『ザ・ボーンズ・ブリゲード・ビデオショー』を自主制作し、VHSでリリースしたのだ。
低予算のアマチュア作品だったが反響は凄まじく、販売予測300本に対し3万本を売り上げる予想外のヒットとなった。ビデオにはチームの各メンバーが登場し、当時としては珍しいコメディ風の茶番やスケートを題材にした自作ソングも織り交ぜており、単なる技術映像集以上のエンターテインメント性を備えていた。ペラルタはこの成功に手応えを掴み、以来毎年新作ビデオを制作しては世界中のスケートショップに届け、画面を通じて次世代の若者たちにスケートボードの魅力を伝えていった。
続く第2弾『フューチャー・プリミティブ』(1985年)では、ストリートスタイルの台頭が描かれる。前作ではランプやプールでの滑走シーンが中心だったが、本作からはトミー・ゲレロがサンフランシスコの丘を爆走し、ロドニー・ミューレンが平地で華麗なフリースタイルトリックを披露するなど、街を舞台にした新たなスケートの可能性を提示したのである。事実、この映像がきっかけでストリートスケートに脚光が当たり、世界中の若者が路上でのトリックに挑戦し始めたといっても過言ではない。ハンドレールや坂道、荒廃したバックヤード──彼らはあらゆる都市空間をキャンバスに見立て、スケートボードがどこでも楽しめる自由なカルチャーであることを示してみせた。
映像技法的にも『フューチャー・プリミティブ』は進化を遂げ、グラフィティのカットインやモンタージュを駆使したスタイリッシュな編集で視覚的インパクトを強めている。当時ティーンエイジャーだった視聴者たちは、学校帰りにこのビデオを繰り返し再生し、新技をスローモーションで研究した。こうしてVHSデッキはスケーターにとって欠かせない「教科書」と化していったのである。
そして1987年、満を持して公開された第3弾『ザ・サーチ・フォー・アニマル・チン』(邦題『アニマル・チンを探せ』)はスケートビデオ史のターニングポイントとなった作品だ。「プロット(筋書き)」を持つ世界初のスケートボード映画とも称される本作は、単なる技の連続ではなく一本のロードムービー仕立てになっている。ボーンズ・ブリゲードの面々が伝説の初代スケーター「ウォン・トン・アニマル・チン」を探す旅に出るという物語で、ハワイ、カリフォルニア、ネバダ、そしてメキシコへと旅をしながら各地でスケートセッションを繰り広げる展開だ。
メンバーたちは台本に沿ってコミカルな演技にも挑戦しており、トミー・ゲレロ曰く「演技なんて本当はやりたくなかったけど、ステイシーのアイデアだった」と苦笑交じりに振り返るほど手探りの試みだった。確かに演技やセリフ回しは拙いが、それ以上に彼ら本人のキャラクターが画面いっぱいに滲み出ている点がファンの心を掴んだ。ランス・マウンテンの三枚目ぶり、トミー・ゲレロのあどけなさ、スティーブ・キャバレロの寡黙なクールさ、マイク・マクギルの普通の兄ちゃん的親しみやすさ、トニー・ホークの圧倒的スキル、ロドニー・ミューレンの緻密な職人技──脚本を超えて個性が輝き、見る者はまるで仲間とロードトリップしているような気分に浸った。
映像面でも『アニマル・チン』は当時として破格のスケールだった。クライマックスでは、砂漠のど真ん中に謎の巨大ランプ「チン・ランプ」が出現する。これはバック・トゥ・バックの二連結ハーフパイプにスパインとトンネルを組み合わせた特注の巨大ランプで、高さ二階建てにも及ぶ当時最大級の代物だ。撮影チームは許可も取らず私有地に勝手にこれを建設し、地元の保安官に咎められると「非行少年の更生映画を撮っている」と口から出まかせを言って4日間の猶予をもぎ取ったという舞台裏も、面白い秘話である。
完成した映像には、広大なランプ上でブリゲードの面々が一斉にインバートを決める圧巻のシーンも収録され、観る者を驚愕させた。従来のスケート映像をはるかに凌ぐ計算されたカメラワークや編集技法、劇中だけのために書き下ろされたスケートソング(ジョニー・ラッドの劇中歌 “Skate and Destroy” など)──『アニマル・チン』は文字通り「スケボーが主体の映画」という新境地を切り拓き、以降のスケートビデオのフォーマットに多大な影響を与えた。
パウエル・ペラルタが映像のため特別に建造した「チン・ランプ」。複数のハーフパイプを継ぎ合わせた巨大構造は後のメガランプの先駆けとなり、このスケールの映像表現が当時いかに斬新だったかを物語る。ブリゲードは結局アニマル・チン本人には出会えないまま旅を終えるが、ラストで彼らは気付く──「探し求める過程こそが大切であり、純粋に滑る楽しさこそが旅の意味だった」と。目的より過程を尊ぶ精神は作品を超えてスケートボード文化そのものの哲学ともなり、現在でも語り草となっている。公開当時、このユーモラスでキッチュな作品はティーンエイジャーに熱狂的に受け入れられ、ビデオのキャッチフレーズ「チンを見たか? (Have You Seen Him?)」は街の合言葉と化した。
個性が光る伝説のメンバー達とその影響力
トニー・ホーク (Tony Hawk) – 高さと回転系トリックでバートの新次元を切り開いた天才だ。1980年代後半にはコンテストで無敵の強さを誇り、やがて「スケートボードそのものを象徴する存在」にまでなった。史上初めて”900”を成功させるなど難度の高いエアリアルトリックを次々メイクし、常識を覆した。後年はビデオゲームやイベントを通じスケートの普及に貢献し、“世界で最も有名なスケーター”として業界の枠を超えたアイコンとなった。
スティーブ・キャバレロ (Steve Caballero) – バートとストリートの両方で才能を発揮したオールラウンダーだ。彼が編み出した「キャバレリアル (Caballerial)」は、現在でも彼の代名詞として語り継がれる。コンテストでは常に上位に名を連ね、どんなセッションでも安定した滑りを見せる職人肌。その一方で敬虔なクリスチャンとしての素顔も持ち合わせ、真面目さとスタイルを併せ持つ存在として多くのファンに敬愛された。
ランス・マウンテン (Lance Mountain) – ブリゲードのムードメーカー的存在だったランスは、「誰より上手いわけではないけどスケボーが大好きな親近感が感じられるスケーター」の代表格だった。陽気でユーモアに富んだ人柄はビデオの随所でも発揮され、コメディタッチのスキットでお茶の間を沸かせた。滑りの面でもバートからプール、ストリートまで卒なくこなし、チーム内では潤滑油のような存在だったという。プロスケーターとして長く活躍した後も映像制作やコンテストMCとしてシーンを支え、誰からも愛されている。
ロドニー・ミューレン (Rodney Mullen) – “フリースタイルの神童”と称されたミューレンは、現代ストリートスケートの祖である。彼が発明したフラットでのオーリーや、キックフリップといった数々のトリックは、今やストリートトリックの基本となっている。1980年代当時、彼はフリースタイル競技で無敗を誇り、その緻密で創造的なトリックは他を圧倒していた。彼の発想は「止まった状態でのトリック」を「走りながらのストリートトリック」へと進化させ、スケートボードの遊び方そのものを塗り替えたと言える。静かで内向的な性格ながら情熱は人一倍強く、ビデオでは黙々と超難度トリックに挑む姿が多くの若者を刺激した。
トミー・ゲレロ (Tommy Guerrero) – ゲレロはチーム最年少でありながら、ストリートスケートのパイオニアとして異彩を放った存在だ。サンフランシスコ出身の彼は、坂道や路地裏など日常の風景をスケートスポットに変えてしまう独創性で人気を博した。ビデオでは、曲に合わせ街をクルージングしながらトリックを決めるスタイルが爽快で、多くのスケーターが彼を真似て街へ繰り出した。派手さよりも流れるような滑りと独特の音楽センスが光り、引退後は音楽活動やアートの分野でも才能を発揮している。
マイク・マクギル (Mike McGill) – マクギルはバートトリックの歴史を変えた張本人だ。1984年、彼が発明した「マックツイスト」を大会で初披露した際には観客が総立ちになったという逸話が残る。以降、マックツイストはトッププロの必須トリックとなり、バート競技の技術水準を一気に引き上げた。温厚で控えめな人柄だが探究心は強く、新トリック開発にも余念がなかったそう。映像ではその高度なエアトリックの数々で視聴者を驚嘆させた。引退後はスケートショップ経営で成功を収め、地元で後進の育成にも尽力している。
『アニマル・チン』が若者文化に残したもの
『アニマル・チンを探せ』が公開された1987年、ボーンズ・ブリゲードは押しも押されもせぬスケート界のスーパースター集団となっていた。ビデオの物語性はそれまでスケートを知らなかった層にも訴求し、「スケートボードには仲間と旅するロマンがある」ことを示した。映像の随所に散りばめられたメッセージ性は、冷戦終結前夜の世相も手伝って当時の若者文化に不思議とマッチした。例えば「チン爺さん」の語る謎めいた箴言めいた言葉は、どこかヒッピーカルチャーの残り香が漂うスピリチュアルなもので、80年代の子供達にとって新鮮に映ったのである。作品のエンディングで示された「答えよりも探求の過程が尊い」というテーマは、受験戦争や管理教育に追われがちだった同世代へのアンチテーゼとも解釈でき、スケートボードという自由な文化への憧れを一層掻き立てた。
ビデオの爆発的ヒットにより、ボーンズ・ブリゲードの名声はスケートボード業界の枠を超えた。彼らは各地でデモンストレーションツアーを行い、会場には熱狂的なティーンエイジャーが押し寄せた。人気が過熱しすぎて小さな暴動寸前になったイベントもあったほどで、1987年のピーク時には年間売上2700万ドルを記録し、プロ選手には月2万ドルものロイヤリティ収入が転がり込んだという。同じ頃、スケーター自身が作る雑誌(『Thrasher』『TransWorld SKATEboarding』等)が創刊され、ファッションではパウエルのスカルロゴ入りシャツが街にあふれ、空前のスケートブームが到来する。まさにボーンズ・ブリゲードは若者文化のアイコンとなったのだ。
しかし一方で、その成功ぶりは競合他社やアンダーグラウンドなスケーター達の対抗心も煽った。たとえばアルバスケーツはドレッドヘアに革ジャンという荒くれスタイルで売り出し、清廉なブリゲードとは真逆のパンク精神をアピールして人気を博した。ヴィジョンやサンタクルーズといった他社も次第に対抗映像を制作し始め、より過激で尖ったプロモーションを展開していく。
80年代末になるとパンクロックの復権やストリート志向の高まりで、ブリゲードのポップな作風は古臭いと感じるスケーターも増えていった。実際、1990年前後にはニール・ブレンダーが「もうガイコツは時代遅れだ」と揶揄し、パウエルVS新興ブランド(スティーブ・ロッコ率いるワールド・インダストリーズなど)の確執も生まれるなど、シーンは新旧交代の様相を呈していく。それでも、ボーンズ・ブリゲードがスケートボードをメインストリームに押し上げた先駆者である事実に揺るぎはない。他社が追随する形でビデオマーケティングやスーパースターチーム編成が一般化したこと自体、彼らの先進性を物語っていると言えるだろう。
なぜ突出できたのか: 戦略とマーケティングの革新
ボーンズ・ブリゲードとパウエル・ペラルタが80年代に一頭地を抜く成功を収めた背景には、練り上げられた戦略とマーケティングの革新があった。他社に先駆けてVHSビデオというメディアを最大活用したことはその最たる例である。ペラルタは消費者の家庭に直接訴求できるビデオの力に着目し、当時普及し始めた家庭用VCRを「武器化」した。雑誌広告だけでは伝えきれない躍動感やチームのキャラクターを映像で見せることで、世界中のファンを魅了したのだ。ビデオはスケートショップ店頭や通信販売で販売され、英語圏のみならず日本を含む海外市場にも浸透した。字幕も吹替もない粗削りな映像だったが、トリックと音楽と笑いさえあれば言語の壁など関係なかった。こうして映像作品そのものが最高の広告塔となり、チームの名前とロゴは瞬く間にグローバルに知れ渡った。
さらにパウエル・ペラルタは全国ツアーやイベント連動にも積極的だった。プロモーションの一環でチームを各地に派遣し、地元ショップ主催のデモや大会に出演させたのである。1980年代後半に行われた世界ツアーでは、欧州や日本にも遠征しファンと直接交流した。各地でサイン会が開かれると長蛇の列ができ、用意したデッキが即完売するなど経済効果も絶大だった。メディア露出のみならずリアルな体験を提供することでブランド価値を高めていったのだ。この戦略は後のアクションスポーツ業界でも踏襲され、「映像 × 現場イベント × 商品販売」を連動させたマーケティングの先駆けとなった。
広告デザイン面でも、パウエル・ペラルタは極めて先進的だった。ステシックIIIの手掛けた広告は、一風変わったコンセプトで知られる。例えば骸骨がスケートボードから顔を出す「ランナウェイ」(逃げ出す骸骨)のイラストや、メンバーが奇妙な小道具と写るシュールな写真など、当時の常識を逸脱するビジュアルが次々と雑誌に掲載された。「最初の広告撮影でステシックはテキーラをあおり、キャデラックを真っ二つに切断して燃やした」という逸話が示す通り、その意気込みは並外れていた。ペラルタいわく「雑誌にトリック写真は任せ、自分たちはアイデアとイメージを見せる」の狙い通り、彼らの広告群はスケートボード=反骨と創造性の象徴として若者の心に焼き付き、ブランドの世界観を強力に印象付けたのである。
このように、優れた製品開発力(高品質ウィールやデッキ)、先見性あるチーム編成、斬新な広告表現、そしてビデオとツアーを軸にした総合的マーケティング戦略が渾然一体となり、パウエル・ペラルタとボーンズ・ブリゲードは1980年代のスケートシーンを制した。他社も名だたるプロや魅力的な製品を抱えてはいたが、統合されたブランディングと物語性の面で彼らに及ぶ者はいなかったのだ。
その後と再評価: ドキュメンタリーとChin Rampの復活
時代が下り、ボーンズ・ブリゲードの黄金期から数十年が経過しても、その影響力は色褪せることがなかった。2012年、ステイシー・ペラルタ監督自身によるドキュメンタリー映画『Bones Brigade: An Autobiography』が公開されると、当時を知らない若年層から往年のファンまで幅広い観客を集めた。サンダンス映画祭でプレミア上映が行われた際には、笑いと涙、そして割れんばかりの拍手喝采が会場を包んだという。映画はトニー・ホークやミューレンらブリゲード主要メンバーへの新録インタビューを通じて栄光と葛藤の日々を赤裸々に掘り下げ、スケートボードの黄金時代を鮮やかに映し出した。
ステイシー自身「彼らは単に大会を支配しただけでなく、この10年で最も革命的な技を生み出したスケーターだった」と語り、チームの偉業を再評価している。作品は「Dogtown and Z-Boys」「Riding Giants」で知られる彼のフィルムメイカーとしての成熟も示す完成度で、批評家からも高い評価を受けた。ブリゲードの物語は終わらず、次世代へのインスピレーションとして生き続けていることを、このドキュメンタリーは証明してみせた。
さらに2016年には、ファン垂涎の「Chin Ramp(チン・ランプ)」再建イベントが極秘裏に計画・実行された。公開30周年を記念し、パウエル・ペラルタ社は南カリフォルニアのキャンプ場Woodward Westに伝説のチン・ランプを忠実に再現。そこにトニー・ホーク、スティーブ・キャバレロ、マイク・マクギル、ランス・マウンテン、トミー・ゲレロらオリジナルメンバーが再集結し、30年ぶりに同じランプで滑走するという夢のようなセッションが実現したのだ。撮影班には当時と同じく名カメラマンのJ・グラント・ブリッテンが加わり、有名な「同時インバート」の伝説的写真も見事に再現された。
イベントにはクリスチャン・ホソイや次世代のトップスケーター達も多数駆けつけ、Vans社による記念ケーキが振る舞われるなど同窓会的祝祭ムードに包まれた。極めつけは、あのジョニー・ラッドが特設ステージで生演奏を始めた瞬間だ。ブリゲードの面々は少年のように飛び跳ね、「Where’s Chin!?(チンはどこだ!?)」のお約束の台詞を口々に叫びながらラッドの歌に合わせて踊ったという。もはや皆50代となったレジェンドプロスケーター達が一堂に会し、30年前と同じ音楽・同じランプで再び笑顔を交わす姿は、当時を知る者にとって感涙ものの光景だったという。
このように、ボーンズ・ブリゲードとパウエル・ペラルタが蒔いた種は、その後のスケートボード文化に豊かな実りをもたらし続けている。彼らは単なる一時代の強豪チームではなく、スケートボードを芸術であり自己表現の場と捉え直し、創造性と個性と進化を融合してみせた改革者だった。彼らの精神は現代のあらゆるスケートビデオや技の中に脈々と受け継がれており、スケーターがカメラの前で自らのスタイルを語るたび、その源流にはブリゲードが築いたフォーマットがある。ボーンズ・ブリゲードは一瞬を形作っただけでなく、スケートボードの未来そのものを形作ったのだ。
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引用・参考文献
Bones Brigade.com 公式サイト
『Bones Brigade Video Show』(Powell-Peralta, 1984)
『The Search for Animal Chin』(1987)
『Bones Brigade: An Autobiography』(2012)
Stacy Peralta ESPNインタビュー (2011)
Wikipedia「Bones Brigade」項目
Tony Hawk VICEインタビュー (2015)
Rodney Mullen WIREDインタビュー (2012)
Juice Magazine「Animal Chin 30年再会」(2016)
VICE 「Animal Chin Changed Skateboarding Three VICE」
HIGHLAND SPORTS「パウエル・ペラルタ・ボーンズブリケードの略史」
Borderlabs「THE BONES BRIGADE: A SKATEBOARDING REVOLUTION」