
100年の釣魚文化を紐解く ― ブラックバスと日本人の軌跡【第一部】赤星鉄馬 ― 幼少期からアメリカ留学まで
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100年の釣魚文化を紐解く ― ブラックバスと日本人の足跡
※この記事の一部には、史実に基づいた内容に加え、当時の人物像や行動をもとに構成したフィクション(創作的再構成)を含みます。
そして今後は、アメリカで行われてきた科学的研究やフィールド調査をベースに、バスの生態・行動・管理の知識を深く掘り下げながら、日本で文化的な受け入れ方や、自然との共存の可能性について発信していきます。
※なお、当ブログではブラックバスの歴史的・文化的価値を掘り下げるとともに、現在において行われる積極放流・無許可放流・密放流などの行為は厳格に非難されるべきであり、法律に基づく資源管理と倫理的な釣りの実践が絶対条件であることを強調しておきます。
本企画は3部構成でお届けします。
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1部:幼少期から留学までの赤星鉄馬
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第2部:アメリカでの出会いと価値観の転換
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第3部:帰国後の導入計画と時代の背景
【第一部】赤星鉄馬 ― 幼少期からアメリカ留学まで
幼少期:実業と学問に囲まれて
赤星鉄馬(あかぼし・てつま)は1877年(明治10年)、大阪に生まれた。
父・赤星弥之助(やのすけ)は実業家であり、当時の国家戦略である「増殖産興業(しょくさんこうぎょう)」が存在した。
※殖産興業とは、近代国家建設を目指した明治政府が検討した産業振興政策。製糸・紡績・製鉄などの育成、国家経済基盤を強化することを目的としていた。
弥之助は大阪紡績会社(のちの東洋紡績)の確立に尽力し、日本初の本格的な紡績工場を粘り強く頑張っている。
そんな父の背を見て育った鉄馬は、幼い頃から近代産業との教育に囲まれた生活を眺めていた。
また、彼は水辺の生き物に強い関心を抱いており、淀川の支流で小魚を観察する時間を何よりも楽しみとしていた。
兄・赤星徹之助(てつの)は後に辞任省し、外交官として活躍。 鉄馬もまた、国際的な展望を持つべきだという期待を背負うようになる。
少年期〜青年期:国家と個人の理想の狭間で
1880年代末、鉄馬は東京にある学習院に進学。ここでは皇族や華族の子弟と共に学び、帝国の未来を見据えて教育エリートを受賞。
その後、彼は東京帝国大学予備門(のちの第一高等学校)へ進みます。
※第一高等学校とは、東京帝大(現・東京大学)進学のための超選抜校であり、文武両道を旨とした英才教育が実施されていた。
この時代、日本は「富国強兵(ふこくきょうへい)」と「殖産興業」を国家理念に掲げ、列強国家との対等な立場を目指して急速に近代化を進めていた。
※富国強兵とは、経済発展(富国)と軍事力強化(強兵)を車の両輪とし、西洋列強に対抗できる国家を目指す明治政府の戦略スローガン。
鉄馬は将来、商業か外交の道を志すべきとされていたが、彼の心には一つの課題が残り続けていた。
「日本人が自然と向き合う形とは、本当にこのままで良いのか?」
彼が関心を抱いていたのは、「産業のための自然」でも「食料源としての自然」でも、もっと個人と自然が対等に向き合う形――つまり文化としての自然利用だった。
そして、そんな彼に転機がやってくる。
渡米:アメリカ・ペンシルベニア大学へ
1890年代末、鉄馬は官費留学生としてアメリカへ渡る。
彼が学んだのはペンシルベニア大学。 フィラデルフィアに位置する名門大学であり、当時は政治・経済学先端知識を学ぶ場として日本人留学生からも高く評価されていた。
鉄馬は寮での共同生活、現地学生とのディスカッション、教会でのボランティア活動などを通して、知識よりも価値観が問われた異文化の中に身を置いた。
当時のは、産業後の成長とともに、労働者臨時・富裕層・移民・ネイティブの錯覚する複雑な社会構造のアメリカ真っ只中にあった。
鉄馬は都市の展望と差別を目にすることができ、週末になると人々が近くまで足を運び、湖畔や森林で過ごす姿に驚きを隠せなかった。
湖畔での出会い:スポーツフィッシングという文化
ある春の日曜日、鉄馬は友人に遠慮され、ペンシルベニア近郊の湖へ出かけた。
そこは家族連れがキャンプを張り、親子が並んで釣りを楽しんでいた。父が子にイルアーの投げ方を教え、母が木陰でランチを準備する――そんな光景があった。
※これこそが「余暇文化(よかぶんか)」である。
彼は現地でこんな会話を交わした。
「君たちは、なぜ魚を釣ってもすぐに逃がすのか?」
アメリカ人の釣り仲間はこう答えた。 「あの魚は“再会の約束”だよ。今日逃がせば、また会えるかもしれない。」
そして鉄馬は貸してもらった釣り竿を使って数投目、水中から突き上げるような引きがあった。
釣れたのは、深い緑に包まれた魚体。口が大きく、横に黒い模様が見られている。
それが――**ブラックバス(Micropterus salmoides)**だった。
同行したアメリカ人はそれを一瞥すると、こう言いました。
「Nice one. Let’s put it back.(ナイスワン。レッツプットイットバック) ※意訳:「いい魚だね。さあ、戻してあげよう」――釣った魚を持ち帰らずにリリースするという文化がそこにはあった。」
釣れた魚を、食べるためではなく、また出会うために「もう一度」という発想。
※当時の日本では、釣りとは食料調達の手段である「漁労行為(ぎょろう)」が主流。魚を逃がすという行為は理解されにくかった。
「この魚は、獲物ではなく『対話相手』なの。」
自然と人間がルールの上で向き合い、論点を尊重するこの文化――それこそが、のちにブラックバスを日本へ導く発想の源泉となる。
次回、第二部では鉄馬がアメリカで学び・感じた「バスとの関係性」をさらに掘り下げ、お互いが帰国後にじっくり計画した社会の壁と、導入の実現に向けた葛藤を描いていきます。
※この記事に記された会話や心情描写(例:「いいですね。 「元に戻そう。」などの記述は、当時の文化的な背景や歴史を基礎として想像して再構成されたものであり、記録などに直接確認されたものではありません。
参考文献・出典
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国立国会図書館デジタルコレクション『官費留学生記録』
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『大阪紡績会社史』(大阪紡績株式会社/編纂)
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食糧記録『明治期官費留学生名簿』
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『日本釣魚史』吉川弘文館
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『芦ノ湖漁業協同組合90年史』
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『バスフィッシング年表』内外出版社
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アメリカスポーツフィッシング文化に関する現地資料・図録など
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この記事の内容に影響を与えたおすすめ書籍
『赤星鉄馬消えた富豪』(与那原恵/文藝春秋)
実業家として、近代日本の交差点に立ち、ブラックバスを芦ノ湖に導いた男の真の姿を描くノンフィクション。